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炎上しそうな私のキリスト教体験談(長文)



先日、私がちょくちょく訪問させてもらっているブログの記事で、宗教に関してちょっと面白い記事を書かれている方がおられました。
その記事を読んで、その昔、キリスト教にちょっと触れた時のことを思い出しました。
今回はそのことについて書こうと思うのですが、また例によって、読む人にとってはちょっと不愉快な思いをさせてしまうかもしれません。
ご了承ください。

さて、私が引きこもっていた初期段階のころ、その悩みを解決するためにプロテスタントの教会にも何度か通っていたことがありました。
通うようにアドバイスしてくれた当時の知人というのも、実は敬虔なクリスチャンで、いつも聖書を持ち歩いているほどの熱心な人でした。
とはいっても彼はいちおう洗礼は受けてはいたものの、カトリックやプロテスタントといった宗派に属さない、本当に個人的に信仰しているようでした。
その彼は、一時期は自殺を試みるまで追い詰められたときに、聖書で救われたと言います。
ただキリスト教のような一神教というのは、ちょっと排外主義的になりやすいのでしょか、その彼もほかの宗教を全くといっていいほど信じていませんでした。
その彼曰く、「神様というのは聖書に書かれたものを指していて、それ以外は神様ではない、もしくは神様であってもイエス・キリストよりも格下の神様」ということらしいです。
たとえば、日本でよく言われる大日如来だの毘盧遮那仏だのアマテラスだのは、聖書には詳しく記載されていません。
記載されていないと言ことは、もしかしたら神様に化けたサタンかもしれない。
あるいは神様だとしてもイエス様よりも劣る、ということらしいです。
それに納得がいかなかった私に対し「それなら」ということで、その知人は私に聖書を読むことを勧めてくれました。
「これを読み込めば理解できる」と知人は自分の聖書を貸してくれたのですが、ご承知の通り、聖書の言葉は難解で私の頭ではなかなか理解できませんでした。
「それなら、それなら」ということで、今度はその知人は私に、最寄りのプロテスタント教会にでも通ってそこで話を聞くように、と勧めてくれました。
ちなみにその知人は、アンチ・カトリックでした。
とりあえず引きこもりの悩みも聞いてもらう目的も兼ねて、何度か最寄りのプロテスタント教会に通ったのですが、そこではますます悩み(引きこもりに関する悩みではない)が深まるばかり。
ある方の洗礼の儀式に立ち会ったときには、仏教をはじめとする他の宗教を信じることは罪人だと、牧師さんは言い切りました。
「それっておかしいんじゃないか」と、改めてその知人に尋ねたのですが、「いや、間違ってはいない」と一蹴されました。
それからしばらくして、その知人とは当人の仕事の関係で、もう会うことができなくなったのですが、それ以降も、その教会には2~3度通いました。
しかし、あることがきっかけで「もういいや」と思い、その教会とも疎遠になりました。

そういえば半年ほど前、パソコンで「悪魔崇拝」と検索したら、『反天皇家』と思わしきサイトに出くわしました。
そのサイトは、私のブログのように個人でやっているようなチンケなサイトではなく、かなりしっかりしていて、「神道及び天皇系の神道は悪魔崇拝だ」と厳しく批判していました。
いえ、神道だけではなく日本古来から伝わる密教も、いろいろな角度から検証して「悪魔崇拝」と認定していました。
これは一体どこの団体か? と思い細かく閲覧して行ったら、案の定といいますか、きっちりと聖書の宣伝だけは怠っていませんでした。
もはやここまでくるとイエス・キリストの面汚しとも言いたくなりますが、その一方で「保守論客」と呼ばれる方の中には、熱心なカトリック信者の方も少なくないようです。
同じクリスチャンでも、他宗教は悪魔崇拝のように排除したり、かと思えば、皇室の方々に敬意を表す人もいる。
これもやはり、難読難解といわれている聖書の解釈の違いなのでしょうか。



話が思いっきりさかのぼりますが、1618年から1648年の間には「三十年戦争」というのが勃発していて、これはヨーロッパ全土を戦場としたプロテスタントとカトリックとの壮絶なる戦争のようでした。
この争いの背景には、お互いをお互い「悪魔崇拝」と罵り合っていたため、ななかな戦争に収拾がつかなかったようです。
これもはやり聖書の解釈の違い、あるいは意味の履き違えで、取り返しのつかない凄惨な争いも起きるということでしょうか。
そう考えると、聖書を読む人間側の力量ってかなり重要なんだなと、思わず痛感してしまいます。
実は先日投稿させていただいた松本人志の件も、彼の言葉の解釈を間違えればとんでもないことになりますよ、ということが言いたかったのですが、わかっていただけたかな?



さて、話をもとの時空に戻して、私がそのプロテスタント教会に通わなくなったきっかけをお話しします。
ある日、その教会に在日2世か3世の宣教師の方が来られました。
その人は、日本と韓国の間を行き来しながら布教活動を行っていたらしく、韓国語訛りの流暢な日本語で、私の地元である京都にある神社仏閣を「偶像崇拝だ!!」と厳しく批判されていました。
さらに、日本古来からある「八百万の神々」を、「あんなものは雑鬼だ!」と批難。
さらにさらに、現代の日本のキリスト教の普及率の低さを厳しく批判して、当時の若い信者たちに「お前たちは何をしている! ちゃんと布教活動をしているのか!」と、ほとんど激怒に近い活を入れていました。
これは私の勝手な思い込みかもしれませんが、その在日の方の態度から察するに、彼は日本人を殺したいぐらいに恨んでいて、キリスト教をその憎しみを晴らすための道具に使おうとしているんじゃないか。
そんな雰囲気がひしひしと伝わってきました。
あの在日の方の態度に完全にドン引いてしまった私は、以前から抱いていた疑問もあいまって、
「ここは私の来るところではない」
と思い、もうそこにはいかなくなりました。
もちろんクリスチャンの方が全てが全て、こうだとは言い切れませんし、もともと頭の悪い私には、キリスト教の本質が理解できなかったのかもしれません。
しかし、これらの体験を通じて感じたことは、キリスト教に限ったことではありませんが、宗教というのは宗教そのものが問題なのではなく、信仰する人間の側に問題があるのだなと、改めて思い直しました。

後日談ではありますが、私がそのプロテスタント教会を離れてから、独学のような形で、数冊の宗教関連の書籍購入して、ちょっと勉強したんです。
ただし書籍といっても、そのほとんどがオカルト傾向が強いですが。。
その結果、殉教者として見た場合、私はお釈迦様よりもイエス・キリストの方に、なぜか魅力を感じてしまいました。
こんなことを書いておきながら。
なんだか彼らがなぜ排外主義になりながらも、クリスチャンになっていくのかも、何となくわかったような気がしないでもないです。
だからと言ってキリスト教に改宗したいかと訊かれれば、それはちょっと遠慮しておきます。


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tag : 長文 宗教

2018-11-06 19:42 : 雑記 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :
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軽度の発達障害。
それに伴い中度の社会不安障害を誘発した模様。

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