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FC2トラックバックテーマ 第2064回「初めて自分で買ったCDは?」

FC2トラックバックテーマ 第2064回「初めて自分で買ったCDは?」



7月29日の『FC2トラックバックテーマ』は「初めて自分で買ったCDは?」でした。
1週間以上前のテーマということもあり、タイミングとしては少々ズレてはいるのですが、当ブログも音楽関係の記事を何度か書いているの手前、ちょっと外せないテーマということで取り上げてみることにしました。

さて、私が始めて買ったCDはポリスの『ザ・シングルス/見つめていたい』でした。
といいましても、このアルバムを本当に初めて買ったCDとして認定してよいのかどうか、少々微妙なところがあるんです。
それはなぜかと言いますと、このアルバムは、私が初めて買ったCDプレイヤーの特典でもあるからです。
私が初めて買ったCDプレイヤーは、ソニーのCDラジカセでした。
たしか名前は「ドデカホーン」だったかな?
当時は今とは違って、CDプレイヤーそのものに希少価値が高かったため、そのCDラジカセも7万円しました。
その7万円はどこから出たのかと言いますと、当然、私の生まれて始めのアルバイトで稼いだお金でした。
当然、私がこんな性格ですから、当時から、他のバイトはもちろんのこと、正社員からも、相当な色眼鏡で見られながら必死で稼いだお金です。
そのお小遣いをもとに、念願だったCDラジカセを買ったのですが、そのCDラジカセを購入した電気屋さんでは、特典としてすきなCDを1枚付くれるという特典付きでした。
購入時、店員さんから「それじゃあ、CDコーナーへ行って好きなCDを選んでください」といわれて、好きなCDを選ぼうとしたのですが、私が当時、一番欲しかったCDは、その年にグラミー賞を独占したU2の『ヨシュア・トゥリー』でした。
ところがそのお店のCDコーナーには、それがおいてありません。
特典のCDがいらないのなら、その分の値引きするということだったので、「それだったら」ということで私はその次に欲しかったポリスのCDを特典として購入した次第です。
ちなみにU2の『ヨシュア・トゥリー』は、その次の月のバイト代で購入しました。
そしてこれが、単独で買った初めてのCDです。
このような経緯があるため、初めて買ったCDとしては、ポリスの『ザ・シングルス/見つめていたい』なのか、U2の『ヨシュア・トゥリー』なのか、少々迷うところであります。

ところで、先ほども書きましたが、このCDラジカセというのは当時としてはまだ希少価値が高いものでありました。
そして"そのもの"自体が画期的な家電製品であったため、音楽を聞く以外にも"そのもの"自体に興味津々でした。
私は1曲目の『ロクサーヌ』が流れると同時に、そのCDフォルダの窓から回転するするCDをじっと眺めていました。
さらに、CDラジカセに装着してあるデジタル表示も眺めながら、「今、何曲目の何分経過」なんてことを、ずっと確認していました。
確認したからといって、それがどうってことないのですが、それほどCDプレイヤーそのものが珍しく、興味津々だったわけですね。

そういえば、ビートたけしさんが子供のころ、初めて洗濯機が家にやってきたときというのは、家族総出で、グルグル回る洗濯機の様子を眺めていたそうです。
実をいいますと、我が家に初めてコーヒーメーカーが来た時というのも、コーヒーが出来上がるまで、フィルタを通して落ちてくるコーヒーをじっと眺めていたのを覚えています。
洗濯機といいコーヒーメーカーといいCDプレイヤーといい、当時としては画期的な家電製品が家庭にやってくると、どうしても性能云々よりも、それ自体に興味が湧いてくるため「見つめていたい」になってしまうんでしょうね。

おあとがよろしいようで。


Every Breath You Take/THE POLICE

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tag : ロック 家電製品 ポリス U2

2019-08-08 14:06 : 雑記 : コメント : 2 : トラックバック : 0 :

お蔵入りする予定だった記事を、敢えてアップしてみました。

今回の記事は、いったんは「お蔵入り」にしようと思ったのですが、とりあえず投稿することにしました。
ただし、また読む人によってはとても不愉快に思われるかもしれません。
ご了承ください。



私が10代・20代のころにビルボードのヒットチャートの追っかけをやっていたり、後追いでいろんな洋楽ロックを聞いていたころというのは、とにかく「洋楽のアーティストはみんな歌が上手い」とか「洋楽アーティストの奏でる音楽はみんなカッコいい」などと思い込んだりしていたものでした。
ところが25歳を過ぎたあたりから、ハタと気づいたりするんです。
「あれ? この人、歌ヘタじゃん」とか、「何だこの音楽、ただの騒音じゃないの?」といった具合です。
もちろんすべてが全てそう聞こえてしまった、というわけではありませんが。
では、なぜそうなってしまったかというと、20代前半あたりから、今まで聞きもしなかったような音楽を、ちょいちょいつまみ食いしながら聞くようになったんです。
そしたら、「へえ、世の中にはこんな素晴らしい音楽もあるんだ」といった具合に、今まで自分が好みだった音楽に関して、色々と客観的に見聞きすることが出来たわけです。
とりわけボーカリストなどはとても分かりやすく、オペラ歌手の3大テナーを筆頭に、ルイ・アームストロング三波春夫ちあきなおみテレサ・テンといった、それまでだったら聞きもしなかったような一流ボーカリストの歌声を耳にすると、勢いだけで突っ走ってきた感のある洋楽のボーカリストやロックボーカリストの下手な部分が、異様に耳につくようになってしまったわけであります。
だからといって、今まで聞いていた洋楽アーティストやロック・アーティストのことが嫌いになったかと言えば、もちろん、決してそんなことはありません。
むしろ、あの下手さ加減が変にクセになる場合だってあったりしますし、変に上手く歌ったりすると音楽の全体のバランスが崩れる場合もあります。
それゆえに、もし「この人、歌が下手だよね」とか「ただの騒音」といった感想を返されても、10代・20代のころだったら少しカチンときましたが、今だと「やっぱりそう来たか」となってくるわけです。
つまり、そのアーティストが好きか嫌いかという問題と上手いか下手かの問題は、別問題だと考えています。
それゆえ、この2つの問題を混合して考えられてしまうと、私としてはちょっと頭が混乱してしまうわけですが。

ところで、前回アップした投稿では、公開・非公開を含めて3人ほどばかりのお叱りのコメントをいただきました(現在、更新が滞っているのは、それとは全く関係ないですよ)。
ただやはりといいますか、どうしても、その投稿記事で例として挙げたアーティストの歌声を、「ウマい」と思える感性が、私には理解できないわけであります。
これが10代・20代の若者がそう思うのであれば、それもなんとか理解できるのですが、さすがに30・40歳を超えてその感性となると、「今まであまりいい音楽を聞いてこなかったのかな」などと勘繰りたくなります。
もちろんその人たちは、そうしてこなかったぶん、私と違って、アウトドア的な趣味を重視されて、その年齢に至るまでリア充生活をエンジョイされていたとは思うのですが。

それでは、先日の投稿記事で紹介した掲示板のスレッドではどうだったかというと、それに参加されていた方々というのは、覚えている限りで思い返してみますと、私とほぼ同年代の方々ばかりでした。
しかも、そのスレッドに参加されてい方々の音楽履歴も、けっこう私に近いものがありました。
つまり、自分の専門分野以外にも、色々と聞いておられるみたいでした。
そうなってくると、そのスレッドに参加されていた方々というのは、ちょっと変な表現ですが、私の"分身"みたいなもので、「だったらこの人、歌がヘタクソなのぐらい分かるよね」となったわけであります。
ところが、それが全然わかってもらえなかった。
私と同年代で、似たような音楽遍歴をたどっていながら、この感性の違いはなんだろう?
もちろん、同年代の人間が同じ音楽の趣味や音楽遍歴を持っていたからと言って、自分と同じ感性なるとは限らないのですが、その一方で、なぜそうなってしまったのかに関しては、今にしてみれば思い当たるふしもなきにしもあらずです。
その私の「ヘタクソ」発言に反論された方も含め、前記事で紹介したスレッド参加者の何人かは、どうもバンド活動をやっておられたかたもいたようでした。
ということは、もしかするとではありますが、バンドをやるとどうしても、その自分の専門ジャンルに対して突き詰めてしまうから、自分の好きなジャンルの音楽に対して、意識的か無意識的かは別として、なかなか客観的に見聞きしづらくなるのかなと。
ちなみに、バンド活動をされていない方のビジュアル系バンドの感想は、「よくわからない」でした。
私と同世代で音楽好きの方のビジュアル系の感想としては、本来はこれがもっともオーソドックスな感想なんでしょうね。
ということは、バンドをやっているかやっていないかを基準で考えると、その私との感性のズレの理由も、なんだかものすごくしっくりときたりするのですが、どうなんでしょう?
いちおう断っておきますが、これは別にバンド活動をやっておられる方を貶めているわけではありませんので。
そういえばST Rockerさんのブログの記事によりますと、クラシック音楽(声楽)を専門職にされている方から見れば、ポール・マッカートニーですら歌が下手な部類に入るのだそうです。
いったいどういう聞き方をすればそのような評価になってしまうのかはわかりませんが、これなんかは、ひとつの専門ジャンルに特化してしまうと、全体を見渡す客観的視野が狭くなってしまう典型例なのかなと思ったりもします(などと、私も偉そうなことは言えませんが)。



ところで、「30歳越えてのこの感性」ということで言うなら、それにちなんだ、ちょっと面白いエピソードがあります。
20年ほど前、リア充を絵にかいたような会社の同僚がいました。
彼は、当時流行っていたビジュアル系が大好きで、カラオケでも彼らの歌を歌いまくりという状態でした。
その同僚に私は、「以前から興味があった」ということで、サイモン&ガーファンクルの『明日に賭ける橋』を聞かせてあげたんです。
するとその同僚の感想は、「俺の方が上手い!」でした。
「こいつ、何を寝ぼけたことを」とそのときは思ったりもしたのですが、その同僚にしてみれば、アート・ガーファンクルの繊細で囁くような歌声が「軟弱」だの「声量がない」といった具合に聞こえてしまったようです。
そういえば、当時のビジュアル系のボーカリストというのは、とにかく大きい声を張り上げていればそれが上手い、という単細胞的風潮でしたから、カラオケでそのビジュアル系の歌を大声で歌いまくっている同僚からしてみれば、「俺の方が上手い!」となってくるのは当然かもしれません。
ちなみに、その同僚が歌う『明日に賭ける橋』をカラオケで聞いたことがあるのですが、それはもう聞けたもんじゃありませんでした(当たり前か)。
この調子だと、同じタイプのボーカリストである五木ひろしに対しても、「俺の方が上」なんて、今ごろ言い張ってるんじゃないかと、ちょっと心配です。
「上手いか下手か」の感性がズレてしまうと、こんな勘違い野郎を輩出してしまうということを、思い知らされた瞬間でした。

そういえば、先日の投稿の非公開コメントの中には、「リスナーさんたちを静かに見守ってあげてください」といったコメントも寄せられてくださった方もいらっしゃいました。
これに関してほぼ同感で、とくに10代・20代の若い子たちに関しては、「きっと、こういった音楽を経て色々な音楽に目覚めていくんだろうな」と思っている次第です。
いや、そうなってもらわないと、また変な勘違い野郎が出てきてしまいそうで、ちょっと怖いです。


↓何度見ても、ポール・サイモンがナイナイの岡村に見えてしまいます。

Bridge Over Troubled Water/SIMON & GARFUNKEL

tag : ロック

2019-07-25 14:36 : 雑記 : コメント : 6 : トラックバック : 0 :

祇園祭、見に行きました。



祇園祭、見に行きました。
といっても15日の宵々山の方ですが。
祇園祭は山鉾巡行を除いては、もうここ10年連続で見に行っているわけですが、やはり年齢とともに体力の関係でしょうか、滞在時間もだんだん短くなってきています。
先日も、おそらく史上最短の滞在時間だったと思います。
とは言っても先日の場合、午後6時の歩行者天国までの時間が予想外にメチャクチャ余ってしまって、その時間つぶしに疲れ果ててしまった、と言うのもありますが。

ところで話は変わりますが、今から30年ほど前、島田紳助さんが司会されていた深夜のトーク番組で、ある音楽関係者(多分ミュージシャンだったと思うのですが)がゲスト出演されていたとき、こんなことが話題になりました。
そのゲストの方が言うには、「京都の人はコンサートのノリがあまり良くない」とのことでした。
そういえば弟が学生時代に、本田美奈子のコンサートに行ったときも、観客のノリがあまりよろしくなかったそうです。
そのゲストの感想を聞いた、京都出身の紳助さんによると、「それはどうも、地元の祭りと関係しているのではないか」とのことです。。
たしかに、九州や東北といった地方のお祭りだと、神輿を担いでワッショイワッショイといったような威勢のいいお祭りがほとんどです。
喩えは悪いかもしれませんが、岸和田のだんじり祭りなんて、威勢がよすぎてほとんど殺し合いのようなお祭りになっています(本当に喩えが悪いです)。
そういった地元の勇敢な大人たちの姿を見て育った子供たちは、「いつか自分たちもあんな風に」といった憧れやをもったり、その姿をイメージで刷り込まれたり、となってくるのだそうです。
その憧れやイメージが子供のころから刷り込まれると、地元の県民性などにも現れるのだとか。
その点、祇園祭などは地方の威勢の良いお祭りとは違い、言ってみれば本当にハンナリ・ノンベンダラリなお祭りです。
3大祭りのほかの2祭りである、時代まつり葵祭などもそうです。
そういったノンベンダラリなお祭りを子供のころから見せられると、それがやがて県民性(府民性)にも現れ、コンサートのノリにも反映されるのではないか、ということです。
実際に紳助さんは、子供のころ、祇園祭を見て「アホちゃうか」と思っていたとか。
ちなみにではありますが、京都には3大祭りのほかに「鞍馬の火祭」という迫力満点なお祭りもあります。
こちらは集落の広さの関係もあって、見学できる人数も限られているみたいですが、このお祭りの存在を知ったとき、「京都にもこんなエキサイティングなお祭りがあったのか」と感心したもんです。

そんな紳助さんの発言の影響からか、私も若いころは祇園祭なんて興味がなかったのですが、実際に行ってみると、これがなかなかいいもんであります。
なかでも私の場合、山鉾を見に行くというよりも、お囃子を聞きに行く、といったほうがいいかもしれません。
このお囃子だって、若いころには退屈なだけだと思っていたのですが、年齢を重ねるごとにあれで心が癒される感覚です。
最近では観光客の増加で、お祭りの期間中、京都の主要ショッピングモールではこのお囃子がBGMで流れている店舗も増えてきたように思われますが、やっぱりあれは生で聞いた方がいいです。
先日も、函谷鉾と長刀鉾のそばから微動だにせずに、ずっと聞き耳を立てていました。
と同時に、そこを通り過ぎる人々から目の保養を見つける楽しみも密かに行っていたり。
15日の夕方ごろ、函谷鉾と長刀鉾のそばで周りをジロジロ見渡している変な奴を見かけた、という方はご安心を。
それはたぶん私です。


↓わかる人にはわかってもらえる選曲です。
っていうか、毎回そういう選曲なのですが。

You Belong To The City/GLENN FREY

tag : 京都 島田紳助

2019-07-17 14:05 : 雑記 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

音楽業界が何だか変だった時代

先日の№314の記事で、ポテチG#さんのコメントに返信したあとに、15年ほど前のとあるネット掲示板でのやり取りのことを思い出してしまいました。
ちょうどそのころのネットの掲示板というのは、本当の意味での情報交換の場所で、まだ「ネチケット」なる言葉が、辛うじて存在していたころでした。
その掲示板のスレッドというのは、音楽専門のスレッドで、そこで私は思わず失言をしてしまいました。
それは、当時流行っていたビジュアル系バンドのボーカリストに対して「あまり歌が上手くない」と、思わず本音を書きこんでしまったのです。
ようするに、そのビジュアル系のボーカリストの歌は「ヘタクソだ」ということです。
そのときの私のコメントは、ファンの方からの反感を買ってしまいました。
そのビジュアル系バンドのファンの方から、「彼は決してヘタクソではない」と、お叱りの言葉を受けたのです。
さらに、そのお叱りのコメントを返してきた方へのフォローも1人・2人と増えていき、「あなたのいう通り、○○さんは、決してヘタクソではありませんよ」と、その当時ですので言葉は優しめですが、私への厳しい反論が次々と書き込まれてきたのです。
今でこそ(あまりいいことではありませんが)、ネットでの誹謗中傷は当たり前の時代です。
しかし当時は、ネットの掲示板というのは、あくまでの情報交換の場であって、今日のように、たとえそれが本音であっても、そのファンが気にしているような欠点を言うべきではなかったのです。
その一方で、その当時の私に寄せられたコメントを読んで、別の意味で驚かされました。
そのビジュアル系バンドのファンの方々というのは、てっきり「歌がヘタクソである」ということを承知したうえで、彼らのファンになっているものだとばかりだと思っていたからです。
それを「ヘタクソではない(これも微妙な言い回し)」とはどういうこと?

好きか嫌いかでの判断は、それは好みの問題なので個人の自由です。
たとえ、その人の歌がヘタクソでも「好きなんだから仕方がない」でも構わないのです。
ジャニヲタとかアイドルオタクたちというのは、そういう聞き方をしています。
ところが、明らかに下手くそなものを「ウマい!」と感じてしまうことは、これはもう好み以前に、感性が狂ってるとしか言いようがありません。
さらに厄介なのは、そのやっている本人たちが、「俺って歌が上手いだろ」と変に勘違いしていることです。
この勘違いは、当時流行っていたビジュアル系ロックバンドすべてに言えることでした。
つまり演奏側も聞き手側も、ちょっと感性がおかしくなってしまっていた、ということになってきます。
このように、演奏している側も聞く側も感性が狂ってくると、そこから生み出される音楽は変な音楽しか生み出されませんし、変な音楽しか流行りません。
それゆえに、ビジュアル系ロックバンドが流行っていた時代というのは、私には本当に狂った時代だった、と言わざるを得ないのです。
そんな時代に突如、彗星のごとく現れてきたのが、宇多田ヒカルです。
今までそういった変な音楽ばかり聞かされてきたもんだから、突然、本格的かつまともな音楽を奏でる彼女が現れれば、当時のファンは一斉に彼女に飛びつくのは当然です。
ちなみに、2000年代あたりからK-POPが日本で流行したのも、それが原因ではないかと思うこともしばしばです。
今まで変な音楽ばかり聞かさされていたなか、突然、K-POPという本格的なエンターティナーが現れたら、日本の女の子たちは彼らに飛びつくのは当たり前なのではないでしょうか。



ところで、1980年代の日本の音楽シーンは、アイドルが全盛期と言われています。
なかでも凄かったのは、秋元康プロデュースのおニャン子クラブです。
彼女たちの、ほとんど素人丸出しの歌唱がファンの心をつかむ一方、その素人丸出しの歌唱に呆れかえる関係者も少なくありませんでした。
なかでも、『冬のオペラグラス』を歌ったときの新田恵利は、立見里歌と並ぶほどの素人丸出しの音程の外し方で、それに呆れかえった和田アキ子などは、彼女の歌を聞いて「家のテレビが壊れたのかと思った」と痛烈な皮肉を浴びせています。
そんな新田さんが今から10年程前に、バラエティ番組か何かに出演されたとき、そのパーソナリティの方から、「もう歌は歌わないのですか?」と質問を受けた時がありました。
新田さんはその質問に対して、こう答えられました。
「私の歌唱力では、歌なんて無理です」
それを聞いたときに、私はなんだか安心しました。
「なんだ、ちゃんとわかっておられたんだ」と。
おかしいことを「おかしい」と感じられることは、まともな感性です。
おかしいことを「おかしくない」と感じてしまうことの方が、かえって危ないのです。
80年代半ばは、おニャン子を中心とした素人型アイドルが全盛期でした。
それはまさに日本の音楽業界の狂った時代、つまり、素人同然のアイドルがプロの歌手よりも人気が出るという、異常な時代だと思っていました。
しかし、それは間違いでした。
おニャン子クラブのメンバーたちも、それを支えていたファンたちも、おかしいこと(歌が下手なこと)を承知したうえで、お互いを支え合っていたのです。
ところが、先のほどビジュアル系とファンの関係は違います。
お互いがお互い、まったくおかしい(歌が下手なこと)に気づかないまま、お互いを支えっているのです。
その光景は、傍から見れば異質であり、異常な時代です。
そんな異質な世界観が、今なおも日本の音楽業界を支えているように思えてならないのです。

そういえば、かつてはクール・ジャパンや日本のアニメの海外進出の影響で、日本のビジュアル系ロック・バンドが、海外でも評価を受けていたらしいです。
たしか、あるテレビ番組で外国人女性に「普段はどんな音楽を聞いているか?」とインタビューしたところ、「今はもう、日本のビジュアル系しか聞いてないわ」という答えが返ってきたほどです。
ところが、そんなビジュアル系は、海外ではどうなったか?
ビルボードのヒットチャートに顔を出すどころか、同じ東アジア圏のK-POPに、あっさりと先を越されてしまいました。
なんだかんだ言いながらも、海外の方の方が本質を見抜く目を持っていた、ということであります。


I Surrender/RAINBOW

tag : K-POP おニャン子クラブ

2019-07-04 20:09 : 雑記 : コメント : 3 : トラックバック : 0 :

ソウルを感じるボーカリスト、感じないボーカリスト

邦楽のボーカリストで、私がもっとも尊敬するボーカリストは3人います。
三波春夫さん、細川たかしさん、そして布施明さんです。
そんな布施さんのYouTubeのコメントの中で、ちょっと衝撃的なコメントを見つけてしまいました。
そのコメントは、布施さんの歌の上手さは認めつつも「クラシックな歌い方はいらんのじゃっ!」と書かれていました。
クラシックな歌い方とは、いったいどういうことでしょうか?
そういえば『アナと雪の女王』が流行していたとき、ヤフコメ蘭ではMay.Jさんの歌声に、「個性がない」とか「無機質」などと酷評しているコメントも少なくなかったです。
これは日本の「侘び寂び」の文化が影響しているからでしょうか、透明感のある声とか、それに上乗せされたオペラティックな歌声というのは、日本人のあいだではウケがあまりよくないようです。
ただし、美空ひばりカレン・カーペンターという例外はありますが。
日本人はどちらかというと、黒人さんのように、ちょっと渋みがかかった声に"ソウル"と個性を感じるようです。
それだからでしょうか、上手いのか下手なのかよくわからない桑田佳祐唱法も、日本では凄くもてはやされます。
これなんかは、白々しく個性と渋みを持たせている感が強くて、歌の下手さを巧みにごまかしているように聞こえてならないのですが、どうなんでしょう?
ことさら桑田佳祐以降は、それがもはや日本のロックボーカリストの基本形みたいになっていて、のちの吉川晃司氷室京介稲葉浩志桜井和寿福山雅治、果てはグレイラルクと言ったビジュアル系バンドのボーカリストに受け継がれています。
私のように、ああいう唱法が大嫌いな人間としては、90年代のロックシーンなどは、ほとんど聞くに堪えない時代でした。
ちなみに、最近、FMから流れてくる日本のロックバンドの音楽に耳を傾けると、みんなスピッツかエレカシに聞こえてしまいます。

ソウルな歌声と言えば、ゴスペルが大好きな三宅裕司さんは、「オペラ歌手の歌声も素晴らしいけれど、あれは人工的に作られた歌声。ゴスペルはそうでないからゴスペルの歌声は魂の声だ」などと評していたことがありました。
私に言わせれば、ほとんど力任せのゴスペルよりも、パヴァロッティやデバルディといったオペラ歌手のように、「こんな高いキー、簡単に出せるよ」といった歌声のほうに、人間の声を超越したような凄さを感じてしまうのですが、どうなんでしょう。
やはり、布施さんや一流のオペラ歌手にように、透明感のある歌声や朗々と歌い上げる歌い方というのは、日本人には合わないのでしょうか?
ところで、今流行りのフレディ・マーキュリーを「オペラティックな声」と評している人も少なくありませんが、私にはそうは思いません。
彼などはどちらかというと、ソウルシンガーのように、力尽くで歌い切っている感が否めません。
もし、オペラティックなボーカリストを挙げろと言われれば、『エスケイプ』以前のスティーブ・ペリーか、エア・サプライラッセル・ヒッチコックあたりでしょうか。
だからフレディ・マーキュリーは、映画が流行る以前から、その歌声がCMなどに起用されるなど、日本人にはウケがいいのだと思います。

ところで、布施明さんのように朗々と歌い上げる「クラシックな歌い方」は、無個性や無機質と酷評されがちではありますが、その一方で、アレサ・フランクリンのようなソウルフルと呼ばれているボーカリストは、文字通り「ソウルを感じる」といって評価されます。
実はこの両者の違いについて、ここ10年程前から気づいたことがあります。
後者のタイプのボーカリスト、つまり個性が際立ってソウルフルに歌い上げるボーカリストは、感情を歌に乗せるのがとてもうまいボーカリストだと思います。
それゆえ、感情を歌に乗せるソウルフルなボーカリストというのは、歌の主人公を"演じて"います。
それに対して、布施さんのように朗々と歌い上げるタイプのボーカリストというのは、「朗読」に近いのではないかと思われます。
その昔、朗読を習っているという知人から聞いたことがあったのですが、朗読というのは、変に言葉に感情を乗っけてはいけないのだそうです。
もちろん抑揚はつけなければなりません。
それというのも、朗読といいうのは、聞き手がその言葉からどういうイメージを描くのかが重要になってくるからです。
かたや役者というのは、自身がその役ををイメージして、その役になりきらなければいけません。
だから朗読というのは、変に感情をこめてはならないのだそうです。
つまり、読み手が変に感情をこめてその役になりきってしまうと、読み手のイメージが直接聞き手に伝わってしまって、聞き手が感じるイメージを奪い去ってしまうからです。
そう考えれば、布施明さんやMay.Jのような「無機質で無個性」と評されるボーカリストは、演じているのではなく、歌を朗読しているのだと思えばすんなり耳に入ってくるのではないでしょうか。
オペラ歌手などもどちらかといえば、朗々と歌い上げる方が多いようですが、その一方で、いくら歌が上手くても、「歌」で演技が出来なければ批評家からバッシングされる場合もあります。
『オテロ』で主役を張ったテノール(男性の高いパート)歌手、マリオ・デル・モナコがそうでした。
「黄金のトランペット」と称されるほどの透明感のあるデル・モナコの歌声は、主人公であるオテロの不安定な心理状態を、「歌」によって演じ切るには役不足だったみたいです。
ちなみにオペラでは、演出などの構成を無視して、「どうだい、俺の声、良い声だろう」と、ひけらかすようなテノール歌手のことを「テノール・バカ」というのだそうです。

ところで、役者さんの中には、その本業の傍ら、朗読を生業にされている方も少なくありません。
江守徹さん、市原悦子さん、石坂浩二さんなど。
この方たちの朗読は、聞き手を物語の世界に引き込むのがとてもお上手な一方で、皆さん役者さんとしても一流です。
さて、ボーカリストの場合はどうなんでしょう。
やっぱり上手いか下手よりも先に、歌の主人公を演じられるかどうかなのでしょうね。
上手いかどうかは別にして、個性的に歌の主人公を演じられる桑田佳祐が、いまだに不動の人気を集めているのが何よりの証拠かもしれません。

↓これ、布施さんの隠れた名曲です。

愛よその日まで/布施明

tag : オペラ ゴスペル

2019-06-27 20:03 : 雑記 : コメント : 2 : トラックバック : 0 :
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Author:かんた
軽度の発達障害。
それに伴い中度の社会不安障害を誘発した模様。

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