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私が体験したインチキ疑惑霊能者



前回、かなり反感を買いそうなキリスト教体験談を投稿させていただきましたが、今回もまた、そういった宗教体験のお話です。
と言いましても、今回登場する宗教団体はキリスト教や○○学会のような既存の宗教ではなく、当時出来立てのホヤホヤの新興宗教で、それも今となってはそれが「インチキだったのでは」と思うほどです。
なぜそう思えたのか。
それは前回の投稿で、「キリスト教体験のあと、ちょっとオカルトの入った宗教本を購入して色々と調べてみた」ということを最後の方で述べさせていただきましたが、それこそが、その宗教のインチキ疑惑の発端だったわけです。



さて、以前の投稿で、私が引きこもりのカウンセリングを受けるために、とある霊能者に診てもらったという記事を書かせていただきましたが、それは私がそのプロテスタント教会を離れてから1年後ぐらいだったと思います。
その霊能者の方は新興宗教を立ち上げられていて、それを夫婦で営んでおられました。
実際に霊能力を持っておられて神様と交信ができると自負されていたのは奥さんの方で、旦那さんはそのサポートのようでした。
新興宗教の宗派は神道で、発足して真新しく、事務所も祭壇が飾ってある本堂も自宅を改装しての場所でした。
私がそのカウンセリング、もしくは除霊を受けるにあたって、自宅を改装した事務所の方でちょっとした面接があったのですが、そこで私は「ちょっとエエかっこしてやろう」と思い、それまで購入していたオカルト本の知識をひけらかしたんです。
「それって、実はこうこうこう言うことなんですよね」とか「神様の存在は量子力学でも確認されているんですよね」とか。
するとそれを聞いたその夫妻は、「君ってすごいね」「よく勉強しているね」といった具合に、私の知識に脱帽した様子でした。
「また日を改めて、ここにいらっしゃい」といってその日は帰りました。
その夫妻にあまりに感心されたので、私は意気揚々と帰路に就きました。
「もしかしたら俺はそこの幹部にさせてくれるんじゃないか」とか「俺もあそこにいたら霊能力が開花するんじゃないか」とか、訳の分からない妄想を膨らませながらの帰宅でした。

1週間後、再びそこを訪れたのですが、今度は本堂のようなところに通されました。
「いよいよ来たか」
私は期待を胸に膨らませながら、部屋を改装した本堂の中に入りました。
部屋には仏壇のような神棚が飾って合って、いかにも神道といった感じでした。
しかし、私が驚かされたのは、その部屋の本棚にはオカルト関連の宗教本がびっしりと詰まっていたことです。
その数は100冊・200冊は優に超えていたと思います。
「うわぁ、すげえ」
とその本棚を眺めていると、
「何冊か持って帰るか? 貸してあげるよ」
といわれました。
もちろん、持って帰ることは無かったですが、私はその場で、1~2冊を手に取ってパラパラとめくったりはしました。
その様子を眺める夫妻。
それからしばらくしてカウンセリングがスタートしたのですが、これが今までとは打って変わって、とても恐ろしいものとなりました。
その夫妻は私を「霊視」した結果をもとにカウンセリングしたのですが、それがもう厳しい言葉の連続です。
そのときは「人間のクズ」だとは言われませんでしたが、それに近いことを言われました。
「だからお前はダメなんだ」「今までの出来事のすべてはお前が原因、全部お前が悪い」とか、もう言われ放題でした。
それはもはや人格否定に等しいです。
要するに彼らに言わせると、引きこもりというのは、単なる「怠け病」にしか過ぎなかったわけです。
それだけに彼らは、もう最初っから霊視で私の根性を叩き直すことしか頭になかったみたいです。
ちなみにあとから聞いた話なのですが、その霊能者夫妻は、のちに彼らの師匠と呼ばれる人から、こっぴどく叱られたらしいです。
結局私は、その日、小一時間ぐらいこってり絞られて帰路についてわけです。
それも相当に落ち込みながら。

実はそのカウンセリングで、私は夫妻からちょっと不思議なことを言われました。
「もう宗教のことは忘れろ」
ということです。
つまりどういうことかというと、「お前が探し求めている答えはそこにはない。実生活の中にある」でした。
たしかに言わんとしていることはわかりますし、その当時は、ちょっとその系統の本を買って何かそちらの方に答えを求めていた感も否めません。
ところが、夫妻がそのアドバイスをするに至ったのは、私を霊視した結果によるものでした。
「お前はそうやって現実から逃れるために、十数年ものあいだ宗教本を読み漁って…」
ん? 十数年?
たしかにその時期は、オカルト系の宗教本をよく読んでいましたが、十数年ではない。
どうもその夫妻が私を霊視した結果、私の部屋の中には、宗教本の類がびっしりと詰まっていて、それを読み漁って、答えを求めようとしていた。
ということらしいです。
いったい何で、そんな見当違いな霊視ができるのか?
実は思い当たるフシがありました。
そうです、カウンセリングの前の面談で、私がその夫妻をも舌を巻くほどの知識をひけらかしたものだから、彼らはそれを聞いて、そういう判断を下したのかもしれません。
もしそうだとしたら、これはもう霊能力でも何でもないインチキということになります。
本当ならそのことを指摘したいところだったのですが、その当時は、怖くてできませんでした。
あんなインチキまがいな霊能力で私を霊視して(したつもりになって)、人格まで否定されて、しまいには「人間のクズ」とまで言われたのかと思うと、今にして思えばとても腹立たしく思えます。

しかしその一方で、「この人たちがインチキまがいでよかった」と思うこともあります。
実は当時、たしかに私はそういったオカルト系の宗教本を読むには読んでいましたが、その霊能者が霊視したような、本棚にはびっしりとか、十数年間読み漁っていたという状態ではありませんでした。
むしろ私の部屋には、そういったオカルト系の宗教本よりも多く所有していたのは、押入れの中にびっしりと隠し持っていたアダルトビデオの方です。
彼らの霊能力が本物で、そちらの方を霊視されていたら、果たしてどうなっていたことか。
「私の部屋には、そんな多くのオカルト本はありませんよ」
「それじゃあ、アダルトビデオの方か」
なんて指摘されたら、私は恥ずかしさのあまり、帰路の途中で線路に飛び込んでいます。
いや、そうなった場合、押入れの中のアダルトビデオはどうなるのかちょっと心配ですが。
しかし、まさかとは思いますが、本当は彼らはそのことが霊視で見えていて、あえてそのことには触れなかったのか。
ときどきどんなことも考えたりはするのですが、今となっては確認する事も出来ず、真実は永遠の謎のままになってしまいました。


曲名:サイキック・マジック/G.I.オレンジ

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tag : スピリチュアル 宗教

2018-11-09 19:46 : 雑記 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

炎上しそうな私のキリスト教体験談



先日、私がちょくちょく訪問させてもらっているブログの記事で、宗教に関してちょっと面白い記事を書かれている方がおられました。
その記事を読んで、その昔、キリスト教にちょっと触れた時のことを思い出しました。
今回はそのことについて書こうと思うのですが、また例によって、読む人にとってはちょっと不愉快な思いをさせてしまうかもしれません。
ご了承ください。

さて、私が引きこもっていた初期段階のころ、その悩みを解決するためにプロテスタントの教会にも何度か通っていたことがありました。
通うようにアドバイスしてくれた当時の知人というのも、実は敬虔なクリスチャンで、いつも聖書を持ち歩いているほどの熱心な人でした。
とはいっても彼はいちおう洗礼は受けてはいたものの、カトリックやプロテスタントといった宗派に属さない、本当に個人的に信仰しているようでした。
その彼は、一時期は自殺を試みるまで追い詰められたときに、聖書で救われたと言います。
ただキリスト教のような一神教というのは、ちょっと排外主義的になりやすいのでしょか、その彼もほかの宗教を全くといっていいほど信じていませんでした。
その彼曰く、「神様というのは聖書に書かれたものを指していて、それ以外は神様ではない、もしくは神様であってもイエス・キリストよりも格下の神様」ということらしいです。
たとえば、日本でよく言われる大日如来だの毘盧遮那仏だのアマテラスだのは、聖書には詳しく記載されていません。
記載されていないと言ことは、もしかしたら神様に化けたサタンかもしれない。
あるいは神様だとしてもイエス様よりも劣る、ということらしいです。
それに納得がいかなかった私に対し「それなら」ということで、その知人は私に聖書を読むことを勧めてくれました。
「これを読み込めば理解できる」と知人は自分の聖書を貸してくれたのですが、ご承知の通り、聖書の言葉は難解で私の頭ではなかなか理解できませんでした。
「それなら、それなら」ということで、今度はその知人は私に、最寄りのプロテスタント教会にでも通ってそこで話を聞くように、と勧めてくれました。
ちなみにその知人は、アンチ・カトリックでした。
とりあえず引きこもりの悩みも聞いてもらう目的も兼ねて、何度か最寄りのプロテスタント教会に通ったのですが、そこではますます悩みが深まるばかり(引きこもりに関する悩みではない)。
ある方の洗礼の儀式に立ち会ったときには、仏教をはじめとする他の宗教を信じることは罪人だと、牧師さんは言い切りました。
「それっておかしいんじゃないか」と、改めてその知人に尋ねたのですが、「いや、間違ってはいない」と一蹴されました。
それからしばらくして、その知人とは当人の仕事の関係で、もう会うことができなくなったのですが、それ以降も、その教会には2~3度通いました。
しかし、あることがきっかけで「もういいや」と思い、その教会とも疎遠になりました。

そういえば半年ほど前、パソコンで「悪魔崇拝」と検索したら、『反天皇家』と思わしきサイトに出くわしました。
そのサイトは、私のブログのように個人でやっているようなチンケなサイトではなく、かなりしっかりしていて、「神道及び天皇系の神道は悪魔崇拝だ」と厳しく批判していました。
いえ、神道だけではなく日本古来から伝わる密教も、いろいろな角度から検証して「悪魔崇拝」と認定していました。
これは一体どこの団体か? と思い細かく閲覧して行ったら、案の定といいますか、きっちりと聖書の宣伝だけは怠っていませんでした。
もはやここまでくるとイエス・キリストの面汚しとも言いたくなりますが、その一方で「保守論客」と呼ばれる方の中には、熱心なカトリック信者の方も少なくないようです。
同じクリスチャンでも、他宗教は悪魔崇拝のように排除したり、かと思えば、皇室の方々に敬意を表す人もいる。
これもやはり、難読難解といわれている聖書の解釈の違いなのでしょうか。



話が思いっきりさかのぼりますが、1618年から1648年の間には「三十年戦争」というのが勃発していて、これはヨーロッパ全土を戦場としたプロテスタントとカトリックとの壮絶なる戦争のようでした。
この争いの背景には、お互いをお互い「悪魔崇拝」と罵り合っていたため、ななかな戦争に収拾がつかなかったようです。
これもはやり聖書の解釈の違い、あるいは意味の履き違えで、取り返しのつかない凄惨な争いも起きるということでしょうか。
そう考えると、聖書を読む人間側の力量ってかなり重要なんだなと、思わず痛感してしまいます。
実は先日投稿させていただいた松本人志の件も、彼の言葉の解釈を間違えればとんでもないことになりますよ、ということが言いたかったのですが、わかっていただけたかな?



さて、話をもとの時空に戻して、私がそのプロテスタント教会に通わなくなったきっかけをお話しします。
ある日、その教会に在日2世か3世の宣教師の方が来られました。
その人は、日本と韓国の間を行き来しながら布教活動を行っていたらしく、韓国語訛りの流暢な日本語で、私の地元である京都にある神社仏閣を「偶像崇拝だ!!」と厳しく批判されていました。
さらに、日本古来からある「八百万の神々」を、「あんなものは雑鬼だ!」と批難。
さらにさらに、現代の日本のキリスト教の普及率の低さを厳しく批判して、当時の若い信者たちに「お前たちは何をしている! ちゃんと布教活動をしているのか!」と、ほとんど激怒に近い活を入れていました。
これは私の勝手な思い込みかもしれませんが、その在日の方の態度から察するに、彼は日本人を殺したいぐらいに恨んでいて、キリスト教をその憎しみを晴らすための道具に使おうとしているんじゃないか。
そんな雰囲気がひしひしと伝わってきました。
あの在日の方の態度に完全にドン引いてしまった私は、以前から抱いていた疑問もあいまって、
「ここは私の来るところではない」
と思い、もうそこにはいかなくなりました。
もちろんクリスチャンの方が全てが全て、こうだとは言い切れませんし、もともと頭の悪い私には、キリスト教の本質が理解できなかったのかもしれません。
しかし、これらの体験を通じて感じたことは、キリスト教に限ったことではありませんが、宗教というのは宗教そのものが問題なのではなく、信仰する人間の側に問題があるのだなと、改めて思い直しました。

後日談ではありますが、私がそのプロテスタント教会を離れてから、独学のような形で、数冊の宗教関連の書籍購入して、ちょっと勉強したんです。
ただし書籍といっても、そのほとんどがオカルト傾向が強いですが。。
その結果、殉教者として見た場合、私はお釈迦様よりもイエス・キリストの方に、なぜか魅力を感じてしまいました。
こんなことを書いておきながら。
なんだか彼らがなぜ排外主義になりながらも、クリスチャンになっていくのかも、何となくわかったような気がしないでもないです。
だからと言ってキリスト教に改宗したいかと訊かれれば、それはちょっと遠慮しておきます。


tag : 宗教 引きこもり 皇室

2018-11-06 19:42 : 雑記 : コメント : 4 : トラックバック : 0 :
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Author:かんた
軽度の発達障害。
それに伴い中度の社会不安障害を誘発した模様。

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