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今回はちょっとしんみりさせちゃいます






先日、少し「訪問者リスト」さんらを中心にブログ巡りをしていたのですが、やはり音楽関係のブログを運営されている方は、エディ・マネーカーズリック・オケイセックの話題に触れられているブロガーさんもおられました。
といっても、洋楽にあまり詳しくない方のための申しておきますと、この二組のアーティストは1970年代後半から80年代にかけて活躍したアーティストで、私のように、この時代に青春時代を過ごされた方々にしてみれば、忘れれないアーティストなのではないでしょうか。
その2人のアーティストの訃報が伝えられたのは、この4日間で立て続けです。
エディ・マネーの逝去は9月13日、カーズのリック・オケイセックが9月15日でした。

音時(オンタイム)さんのブログのコメントでも書かせていただきましたが、エディの代表曲『Take Me Home Tonight』は、私のフェイバリット・ソングの1曲で、今もあのイントロを聞くと当時のことを思い出します。
カーズは80年代、もっとも好きだったアーティストの1組かもしれません。
当時は今みたいに、特定のアーティストに肩入れするという聞き方ではなく、ヒットチャートの追っかけをやっていて、好きなアーティストにもかなりバラつきがありました。
そんな中、「80sの好きなアーティストを挙げろ」と言われれば、カーズはジャーニーやブライアン・アダムスとともに、好きなアーティストとして名前を挙げる1組かもしれません。
それにしても2010年代あたりから、マイケル・ジャクソンホイットニー・ヒューストンジョージ・マイケルプリンスと、立て続けに、私が学生時代によく耳にしたアーティストが亡くなっているような気がします。
彼らはまだ現役で活躍できたはずなのに、なんだか寂し気がします。



Take Me Home Tonight/Eddie MONEY


↓第1回MTVミュージック・アワードを受賞した名作PVです。
ちなみにこのときノミネートされていたのは、マイケル・ジャクソンの『スリラー』で、それを蹴落としての受賞です。

You Might Think/THE CARS


↓カーズ最大のヒット曲にして名曲です。
ちなみに、こちらでボーカルをとっているのはリックではなくもうひとりのボーカルであるベンジャミン・オールです。
彼もまた、2000年に逝去しています。

Drive/THE CARS

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tag : ロック

2019-09-19 14:09 : 音楽 : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

桑田佳祐人気を私なりに検証したのですが…

すいません、今回もまた例の曰く付き関連の記事です。
かなりしつこいようですが、もう1回だけ(多分)おつきあいください。



先日の投稿のあと、あるユーザーさんから、とても興味深いコメントをいただきました。
そのコメントは非公開なので、あまり詳しいことは書けませんが、そのユーザーさん曰く、「歌が上手いか下手かよりも、白々しくないか、ワザとらしくないかの方が重要」というものでした。
このコメントはかなり衝撃的でした。
といっても、別に悪い意味ではありません。
そうです、私も今まで、なぜか気に入らないなぁと感じてしまっていたボーカリストの大半は、変に白々しかったりワザとらしかったりしていたものばかりだったのです。

そんな「白々しい」とか「ワザとらしい」と思えてしまうボーカリストの代表格として上げられるのは、(あまり大きな声では言いたくありませんが)サザンの桑田佳祐です。
あのクセのある歌い回しが私にはどうも白々しくて、好きになれないわけですが、どういうわけか、彼の唱法はもはや日本のロック界のメジャー唱法になってしまっているようです。
そして、それがメジャーになってしまったがゆえに、彼の唱法は後々に受け継がれ、吉川晃司、氷室京介、稲葉浩志、桜井和寿、そしてグレイ、ラルクのビジュアル系バンドのボーカリストなどへと続くわけです。
もちろん、「あのワザとらしさが好き」という方もおられる手前「これは好みの問題だからこれ以上語るな」となってはくるとは思います。
しかし、これを「好みの問題」と片付けられるまでに至ったのは、彼自身がもはや国民的なボーカリストになってしまったからではないでしょうか。
桑田佳祐が世に出てきたとき、彼のボーカルスタイルの評価は、それはもう真っ二つでした。
「ちゃんとした日本語で歌え!」という人と「英語っぽくてカッコいい!」といった具合に賛否両論でした。
その評価も残念ながらといいますか、わずか数年後には後者の評価が前者を圧倒してしまいました。
そのため、もはや誰も彼を酷評する人はいなくなってしまったわけです。
芸術というのはある種のやったもん勝ちと言いましょうかウケたもん勝ちと言いましょうか、たとえそれが芸術と呼べないようなものでも、それが大衆にウケてしまえば芸術認定されてしまうこともあるようです。
そして、その大衆にウケてしまった"芸術"を批判しようものなら「好みの問題だから口を出すな」、あるいは「理解できないお前が悪い」となってくるのかなと思えたりもしてきます。
例の従軍慰安婦像だって、巧みなマスメディアの誘導によって、あれを「芸術作品」として大衆に認めさせてしまったら、今ごろどうなっていたことか。
もちろん、さすがに大衆もメディアもそこまでバカではなかったようですが。
そんな私に言わせると、なぜあの桑田佳祐のような白々しさ、ワザとらしさが大衆にウケるのかいまだに謎で、もしかしたら、世界の8番目の謎に認定したいほどであります。

ただ、あえて桑田唱法がウケた理由が考えられるとするならば、その理由は2つあると思います。
まず1つめの理由として考えられるのは、日本の「侘び寂び」の文化が影響しているのではないか、ということです。
陶芸作品にしろ園芸芸術にしろ、日本人の芸術センスというのは、西洋の芸術とは違って、どこか渋みのあるものを好む傾向にあるように思えます。
以前の記事にも書かせていただいたように、日本人はオペラ歌手のような透明感のある歌声よりも、ゴスペルのような渋みのある歌声に"ソウル"を感じる傾向にあります(№314を参照)。
桑田唱法のような、ひねくれた白々しさを「侘び寂び」や「渋み」と捉えれば、それも何となく理解ができるしだいです。
そしてもう1つ考えられるのは、日本人の「横文字コンプレックス」です。
先ほど記したように、「英語っぽくてカッコいい」などという評価は、典型的な「横文字コンプレックス」の表れではないでしょうか。
なにしろ、日本語そのものがカッコいいと思わなければ、「英語っぽくてカッコいい」なんて思わないわけですから。
ただ、この桑田佳祐がウケる理由として、「横文字コンプレックス」が裏にあるとするならば、これはこれでちょっと問題であります。
彼はあの白々しさだけで40年ものあいだ不動の人気を確保し、さらに先ほど羅列した亜流ボーカリストが次から次へと出現してきているのです。
だとすれば、日本人の「横文字コンプレックス」は、私が思っている以上に深刻化していると思わざるを得ないからです。
もちろん、こんなことは私の思い過ごしであってほしいものですが。
ちなみにこの桑田唱法は、それほど歌が上手くない初心者でもとっつきやすい唱法のようで、あの明石家さんまも、桑田佳祐のモノマネだったらそれなりに音程が取れるのだとか。
それに加え、横文字のように誰の耳にもかっこよく聞こえるとくれば、それなりに歌が上手くなくても、桑田唱法に飛びつくのは仕方がないのかもしれません。

ところで、その「横文字コンプレックス」とは直接関係ないのですが、その昔、バンドでボーカルをやっていたという知人に、こんな話をしたことがあります。
「日本のロック・ボーカリストは、海外のボーカリストの比べて力強さが足りない」と。
当時私が好んで聞いていたボーカリストは、デビット・カヴァーデル(ホワイトスネイク)、ロバート・プラント(レッド・ツェッペリン)、グラハム・ボネット(レインボー)、スティーヴ・ペリー(ジャーニー)あたりです。
それらのボーカリストに比べて日本のロック・ボーカリストときたら…。
ようするに、日本のボーカリストは貧弱であまり歌が上手くない、と言いたかったわけですが、するとその知人から返ってきた答えというのは、私の耳を疑うものでした。
「それは日本人と外国人とでは、体格が違うから仕方がない」でした。
仕方ないって…。
サッカーやラグビーやテニスの錦織圭などは、その体格の違いを補うために、必死になってトレーニングを積んできているのです。
ということは、日本のロック・ボーカリストときたら体格の違いを理由に、その努力を放棄しているということなのでしょうか?
「体格が違うから仕方がない」
この言葉を松岡修造の前で言おうものなら、「そんな気持で歌を歌うんだったら、ボーカリストなんか辞めっちまえ!!」ですよ。
もちろん、日本のロック・ボーカリストが海外のボーカリストと直接対決する機会はないとは思うのですが、それでも、「体格が違うからなぁ…。でも、外国人みたいにカッコよく歌いたいしぃ…」のような理由で、安易に桑田唱法に手を染めたとしていたなら、それはそれでちょっと情けないところであります。

とは言うものの、日本のボーカリストもまだまだ捨てたもんじゃなく、好き嫌いは別として、久保田利伸や鈴木雅之、最近だと平井堅のようなR&B系のボーカリストの方々は、「横文字コンプレックス」に侵されることなく、安易に桑田唱法に手を染めていないあたりが何よりの救いかもしれません。
さらに最近では、FMから流れてくるロック・ボーカリストの歌声に耳を傾けると、以前よりかは比較的自然体で聞きやすくなっているように感じます。
日本のボーカリストのレベルも、少しずつ底上げされているのかなと感じたりもしています。


Give Me All Your Love/WHITESNAKE

tag : 桑田佳祐 ロック

2019-09-18 14:08 : 雑記 : コメント : 2 : トラックバック : 0 :

【映画レビュー】デッドゾーン(1983年:カナダ)


原作  スティーブン・キング
監督  デイビッド・クローネンバーグ
脚本  ジェフリー・ボーム
出演  クリストファー・ウォーケン
    マーチン・シーン 他

<<<『デッドゾーン』のあらすじ>>>

教師のジョニーは恋人サラとのデートの帰りに事故に遭い、昏睡状態に。5年後、目を覚ましたジョニーには手に触れた者の未来と過去を見通す超能力が身についていた。ジョニーの能力は凄惨な殺人事件を解決に導いたが、その一方で彼自身を疲弊させていくことに。やがてジョニーは上院議員候補スティルソンにまつわる恐るべきビジョンを目の当たりにするが……。


引用元:映画.com|デッドゾーン

※)ちょいネタバレ

30年ほど前に『日曜洋画劇場』で見て鮮烈に記憶に残っている映画です。
後半の解説で淀川長治さんが、「あのときの決断が主人公の悲劇を招いた」といったような解説をされていましたが、それは逆に言うと、あのときの決断が世界を救ったということにもなりかねません。
ただし、最後の主人公のアノ行動が本当に世界を救ったのかどうかに関しては、それを暗示するシーンがあってちょっと恐ろしくなってってしまいましたが。

主人公のジョニーは、生死の境目をさまようほどの交通事故にあい、5年間も昏睡状態に陥ります。
それが原因で、全身の筋肉は衰弱し松葉づえなくしては歩けない状態に。
さらに5年ものあいだで婚約者は別の男と結婚し、子供までつくってしまう。
その見返りとしてかどうかは知りませんが、神から与えられたとされるのが超能力。
しかも先の未来が見通せるという、考えようによってはなんとも恐ろしいな超能力です。
そのおかげで、体も精神も弱っている状態の中でマスコミ等に追い回され、主人公の苦悩は増すばかり。
表現は悪いですが、なんとも踏んだり蹴ったりの主人公です。
与えられるものが大きければ、奪われるものも大きいということでしょうか。
内容の面白さとは裏腹に、やるせなさと恐ろしさが全面ににじみ出た映画でありました。

ところで、この映画で狂信的な政治家を熱演していたのは、ご存じマーティン・シーン。
この人の実態は映画のキャラクターとほとんど真逆の、ハリウッド随一のリベラル派として知られています。
出演当時の年齢は43歳ではありますが、そのお顔は息子のチャーリー・シーンと瓜二つ。
やっぱり血は争えないといったところでしょうか。

tag : ホラー映画 スティーブン・キング

2019-09-13 14:16 : 映画レビュー : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

【映画レビュー】ディープ・インパクト(1998年:アメリカ)


製作総指揮  スティーブン・スピルバーグ
監督  ミミ・レダー
脚本  ブルース・ジョエル・ルービン
    マイケル・トルキン
出演  ロバート・デュバル
    ティア・レオーニ
    モーガン・フリーマン 他


<<<『ディープ・インパクト』のあらすじ>>>

ホワイトハウスの女性スキャンダルを追っていたテレビ局のジェニーは、「エリー」という名に行き当たる。だがそれは女性の名ではなく、「Extinction Level Event(種の絶滅を引き起こす事象)」の略だった。大統領は、1年後に未知の彗星が地球に衝突する可能性があることを公表。これを阻止すべく彗星を核爆発させて軌道修正するプロジェクトが実行されたが、結果は失敗。衝突が刻一刻と迫る中、ついに大統領は地下に選ばれた100万人だけを移住させる計画を発表するのだった……。


引用元:Yahoo!映画 |ディープ・インパクト

いまや「ディープ インパクト」でググったら、もう競馬のことしかヒットしなくなってしまいました。
なんだか残念というか腹立たしいというか。
実際の『ディープ・インパクト』を見てさらに腹立たしくなりました。
競馬のイメージで見たら、この作品は娯楽エンターテイメントの大作のように思われがちですが、そこに描かれているのは「地球最後の数日間の人間模様」そのものでした。
それだけにテーマがメチャクチャ重いです。
テーマが重いだけに、娯楽性の強い競馬の馬の名前にされると、「そりゃないよ」って言いたくもなります。
それだけ重いテーマの作品でありますから、見る人によってはちょっとうつ状態に入ってしまう危険性の高い映画であります。
たしかこの映画が封切られた時期というのは『アルマゲドン』と同時期であったため、そのノリでいてしまうと、ちょっと後悔するかもしれません。

ところで、この映画の最大の特徴は、主人公が誰だかよくわからないところです。
ロバート・デュバルなのかモーガン・フリーマンなのかティア・レオーニなのか、はたまたイライジャ・ウッドなのか。
とりあえずクレジットではロバート・デュバルになっているようですが、それだけ主人公がはっきりしないぶん、それぞれの人間模様を重点的に描いた作品といえます。
そこらあたりが娯楽性の強い『アルマゲドン』と違うところ。
監督さんがミミ・レダーという女性であることや、作品にスティーブン・スピルバーグが絡んでいることが、良い意味での大きな影響を与えたと思われます。
さらに興味深いのは、悩めるアメリカ大統領役にはモーガン・フリーマンが演じているところ。
実際にオバマ大統領が誕生するのはその10年後で、それよりも早くから黒人を大統領役に起用していたんですね。
ちなみにこのころ(1998年)の実際のアメリカ大統領はビル・クリントンで、その翌年の1999年には彼のミスジャッジか何かで、本当にノストラダムスさながらの核戦争になりかけたそうです(倉山満著『嘘だらけの日米近現代史』(扶桑社新書)を参照)。
映画とは違い、実際の大統領はロクなことをしません。

tag : SF スティーブン・スピルバーグ モーガン・フリーマン

2019-09-08 14:07 : 映画レビュー : コメント : 0 : トラックバック : 0 :

日本のマンガとグローバル戦略

※)今回の記事は、前半と後半で内容ががらりと変わります。
ご了承ください。




お盆の前、FMラジオを聞いていましたら、「お盆休みの過ごし方」というのが話題になっていました。
それによりますと、その番組のパーソナリティの方は「アウトドアもいいけれど、インドアもいいよね」ということで、お盆休みに読みたい書籍を紹介されていました。
つまり、「お盆休みには読書しよう」ということですね。
そのパーソナリティが薦められていた書籍というのが、これまた意外なもので、それは「マンガ」でありました。
これはおそらく、マンガも読書として侮れないということでそうなったようです。
そんなお薦めのマンガとしてまず挙げられていたのが、大御所・手塚治虫先生の『火の鳥』シリーズです。
あの手塚先生の作品ですから、当然、読書としてのマンガとしては、かなり最適なのではないでしょうか。
そしてもうひとつは、タイトルは忘れましたが、なんでも「ゾンビが徘徊する近未来で猫に癒される」といったような内容の作品でした。
私はマンガといえば、もう積極的に読まなくなって久しいですが、もはやマンガというは娯楽を超越した一種のカルチャー(文化)のようになっています。
それも日本が誇るカルチャーです。

そういえば今から30年ほど前でしょうか、日本のアニメやマンガが世界で市民権を得ていなかった時期、当時のお偉い文化人などは、高校や大学にもなってマンガにふけっている若者を見て「稚拙だ」と批判的でした。
さらに私の地元の新聞などでは、「アメリカでは高校生になれば新聞を読んでいるのに、日本の高校生はマンガなんか読んでいる」という記事が、風刺画入りで掲載されていたこともありました。
ちょうどその記事が掲載された同じころ、島田紳助さんとケント・デリカットさんがダブルでメイン・パーソナリティをつとめる娯楽番組でも、同じような話題が取り上げられていました。
その番組というのは、日米の生活や文化などを対比するという番組で、当時の「マンガ」に対する捉え方も、日米で大きく異なるようでした。
たとえば街行く高校生数人に、「あなたはマンガを読みますか?」とインタビューしたところ、それに返ってくる答えというのが、「マンガなんて小学校の時に卒業したよ」といった類の答えが「吹き替え」で返ってくる、というのが大半です。
つまりこの番組内で言いたかったことは、「日本では高校生になってもマンガを読んでいる」でしょう。
実際、そのインタビューのVTRが終ったあとも、米側の主張をするデリカットさんは、「日本の高校生はおかしい」でした。
それに反論したのが、日本側の意見を主張した島田紳助さんです。
ちょうどそのころの紳助さんは、オートバイのレーシング・チームの監督をされていた時期であったため、『バリバリ伝説』を愛読されていたようでした。
そんな紳助さんですから当然デリカットさんに、「一度『バリバリ伝説』を読んでみろ。感動すんで」と、そのマンガを大プッシュです。

さて、それから月日が流れ、世界中の成人たちが日本のアニメやマンガに耽けはじめると、日本のお偉い文化人はおろか政治家までもが、「日本のマンガは世界が誇れる文化だ」となってくるわけです。
なんて言ったらいいんでしょう。
あれだけ「日本は高校生にもなってマンガを…」などと批判されていた対象物が、今や国家戦略ですからね。
その身代わりの速さに、少々呆れてしまうほどです。
そういえば、かの浮世絵だって、日本人はそれをティッシュペーパーがわりに使っていたり包装紙がわりに使っていたりと、その文化価値を全く認めていなかったんですよね。
そえれがとあるフランス人をきっかけに、その文化価値が認められると、手のひらを返したように重要文化財です。
何だかんた言いながらも日本人って、外国人に認められた者しか誇れないのかなと思おうと、なんだか淋しく思えてきます。



ところで、この記事を執筆中にふと気づいたのですが、、現在は何かにつけて「グローバル戦略、グローバル戦略…」といわれがちです。
しかし、その過去にそれがもっとも成功したのは、話題として取り上げたアニメやマンガ、さらに家電製品や自動車産業といったようなモノづくりの分野です。
でもよくよく考えてみると、このアニメやマンガ、さらに家電製品なんてものは、内需の余波がそのまま海外に飛び火して、それがそのまま世界基準になっちゃった、といったものがほとんどです。
アニメや家電製品以外だと、黒沢映画なんてのもその類かもしれません。
つまり、日本は過去に戦略を立てての「グローバル戦略」なんてものは、一度も成功していないんじゃないかと思われます。
いや、むしろそんな「グローバル戦略」なるものは、一度だって計画したことがないんじゃないでしょうか。
その昔、野茂英雄近鉄バッファローズで鮮烈なデビューを飾り、その年に7冠に輝いたとき、私の地元の新聞では「夢中で投げていたら7冠になった」という見出しがデカデカと載っていた記憶があります。
つまり、これと同じことです。
日本人の暮らしをもっと豊かで便利なものにしたい。
日本の子供たちをもっと楽しませたい。
そんな目の前に突きつけられた課題を、無我夢中でクリアして行ったら、いつの間にか世界で大成功。
おそらくそんなところかもしれません。
そういった過去を、いや、アニメやマンガなどは、その飛び火した内需の余波がいまだに消えることなく今現在もますます広がっているのを見ると、「グローバル戦略」っていったい何だろう、と考えてしまいます。
「営業の神様」として知られるパナソニックの創業者・松下幸之助さんは、とあるインタビューで「12歳で丁稚奉公に出されたことで、商いの本質を体で理解できた」と答えているようです。
丁稚奉公とは通称「滅私奉公」とも呼ばれたそうで、住むところと食事だけを与えられ、給料も有休も社会保障もないまま、ただ働かされるだけの状態です。
つまり自分の身を削ってでも相手に尽くすというのが、丁稚奉公です。
今ではとても考えられませんが、ただ、この考え方は「内需の余波」、すなわち「自分の身を削ってでも人々の暮らしを豊かにしたい」という考え方に、相通ずるものを感じます。
もちろん、この考え方は今問題になっている、サービス残業やブラック企業につながるものと思われますが、ただ、この考え方が下地になっていたからこそ、日本人は人々の暮らしをより便利に、そしてより豊かにしてきたとも言えます。
「グローバル戦略」、つまり「世界を相手に商い」を考えますと、もう一度原点を見直してみる、ということも必要なんじゃないかと思ったりもする次第です。
もちろん、サービス残業やブラック企業といった悪しき習慣は排除してですが。


Blackbird/THE BEATLES

tag : アニメ 島田紳助 手塚治虫

2019-09-07 14:26 : 雑記 : コメント : 2 : トラックバック : 0 :
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プロフィール

かんた

Author:かんた
軽度の発達障害。
それに伴い中度の社会不安障害を誘発した模様。

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